「受け入れた者の喜び」  06.03.05
                  使徒言行録13:42〜52

 わたしたちの信仰は、自分自身が何かを「なす・行う」ことを
重んじる信仰ではありません。
 主イエスが「なされたこと・行われたこと」を信じる信仰です。
 キリスト教は、自分の行いよりも、主イエスの行いに何よりも
心を注ぐのです。

  人々は、イエスさまの十字架の死と復活によって自分の
罪が償われたことを信じるならば、だれでも義とされ、罪を
取り除かれた罪なき者とされ、天国にふさわしいものとされて
救われるとの福音を、驚きをもって聴きました。ユダヤ人で
ある彼らは、自分自身が律法を守ることで救われると教え
られてきました。
  しかし、彼らは自分のなすことに対して限界を感じて
いたことでしょう。
 人は、不十分さを一杯抱える自分に必ず出会うからです。
 自分の不十分さに出会うたびに、辛い思いになったに
違いありません。
 そんな彼らは、「イエスさまが、あなたを天国にふさわしい
人間にするためにしてくださったことを信じなさい。
 イエスさまを信じることで、あなたは救われる」との福音を、
喜んで聞きました。
 そして、次の安息日にも、それを語ってくれるように、
パウロに頼んだのでした。

 次の週には、異邦人たちもやってきました。すると、
前週には福音を喜んで聞いていたはずのユダヤ人たちが、
ののしり始めました。
 理由は、ねたみだと言われます。これまで、律法も聖書も
知らなかった異邦人が、自分と同じであることに耐えられ
ませんでした。
 神さまの一方的な恵みの下にいる自分を喜べても、
人のことは喜べない浅ましい人間の姿です。

 「永遠の命を得るように定められている人」(48節)とあります。
 一人の人の救いは、神さまが救おうとして定め、導いて
くださることで実現します。
 一人の人の救いは、神さまの導きなしには、ありえません。
 それは、ユダヤ人も異邦人も同じです。
 その神さまの導きに感謝することを見失って、ねたみの
虜になってしまったのでしょう。

 イエスさまのなしてくださった大きな恵みに、
 いつも心から驚き喜んでいたいのです。